社会科学の国際化

中山茂

先日、EUのスポンサーする「社会科学の国際化」ワークショップにアドヴァイザーとして招かれた。

思えば、ヨーロッパでは戦後ずっと社会科学の上ではアメリカの大学で訓練されて博士号を取った人たちによって制圧されていた。アメリカの社会科学者が作った枠組みの中で、自国のデータを提供してはめ込む、という役しかさせられていなかった。

それでは面白くない、と1970年代からユネスコでは独自の枠組みで社会科学的調査をしようとしたが、予算不足とシステムの官僚化に悩まされて、あまり伸びなかった。今度はEUの番である。EUのメンバー諸国の力を集めれば、アメリカに対抗できるはずである、とは、スペース・プログラムなど理科系のプロジェクトではいろいろ試みられているところである。社会科学でも、EU独自の問題があるはずである。

たとえば、トルコから来た学者は、アメリカの問題意識に従うと、イスラム原理主義の問題だけを中心課題にすえるが、トルコではそれよりも重要な独自の問題がある、という。何時までもアメリカの下風に立ってそのデータ提供者に甘んずる必要はない。そして、日本ではどうか、と言うのが私への質問である。しかし、日本の社会科学の国際化はまず英語の問題だ、というのが、私の答えである。

今日では、国際会議というと、もうみな英語だけで話すことになってしまった。用語が明快で単純である理科系ではもちろんのこと、社会科学や人文でもそうなってきた。国際会議でなくとも、ふだん母国語で話し合っている人たちのあいだでも、いざ学問的な議論になると、英語になる、というのが、今日的状況である。ただし、それはヨーロッパのことである。

日本のある国立大学の調査によると、理学博士と医学博士とはほとんどが英語で書かれている。ともに90%以上となっている。ところがこれが社会科学・人文系になると、ゼロである。たまに英語で書かれているものは、みな留学生によるものである。このシャープな対照は日本的学問の特徴と言わざるを得ない。だから、ふつうのアメリカの社会科学者には、日本には社会科学は存在しない、と思っている。理科系でも、発表言語が英語であれば、日本人も何らかのハンディを初めから背負い、ついアメリカの下風に立つことになる。まして、社会科学や人文的学問では、理科系ほどモノを中心に扱うものではないから、言葉や概念は微妙なニュアンスもあるし、翻訳は容易でない。ヨーロッパ言語では機械翻訳でもどうやら読めても、日本語ではそうはいかない。だから、社会科学の国際化は日本では言語的理由で不可能である。

社会科学の定義にもよる。日本語の社会科学は、かつては東大の社会科学研究所が象徴するようにマルクシズムの研究であった。アメリカでは19世紀半ばに社会矯正運動であったこともあったが、19世紀末頃から文科系の学問として、歴史・哲学・文学のいわゆるヒューマニティから独立して、定量的研究を科学と称して、経済学、社会学、心理学などが独立してきた。それらを総称して社会科学といった。今アメリカが、あるいは英語が、世界の学会を支配するとすれば、こうした学問の集合体を社会科学というのであろう。 

日本の社会科学が何もアメリカ式のものである必要はない。日本にも独自のパラダイムがあってしかるべきである。しかもそれは日本語でしか表現できないもの、柳田学、折口学などがある。独自で世界に先駆けて英語で学術雑誌を出した今西学などを日本の社会科学といえようが、これはまだ自然界の観察をモトとする理科的性格があったから、可能であったのだろう。

しかし、社会科学は自然科学と違って、概念を作り、その議論で進めるものである。どうしても言語に拠らざるを得ない。そうした概念形成は、外国語の英語では日本人には無理、作っても十分理解してくれないし、また誰も使ってくれない。それなら、いっそのこと社会科学では今後も未来永劫、日本語の概念形成に徹して、日本人の間にしか通じないパラダイムで屋って行くよりしかなかろうか。そして、それが百年もすれば、ユニークな概念として誰か英語に訳してくれるか? それともそれまでに英語が社会科学の国際的言語でなくなるだろうか?