私のマンガイリテラシー:手塚治虫への負債

↑ 左:手塚治虫氏  右:中山茂
↑ 左:手塚治虫氏 右:中山茂

 マンガは私の趣味ではない。むしろ不趣味というべきもので、中学の友人の手塚治とつきあいながら、ついにマンガの趣味をもてなかった。以下はその悩みの告白である。
  上の写真は六十年代のはじめ、中学の同窓で共通の友人の結婚式の時のものである。
  その頃、アメリカから帰ってきたばかりの僕をつかまえて,「オイ,おれが漫画を描くから、おまえ文章を書け。題は、そうだな、「あなたも宇宙を飛べる」これで行こう。カッパ・ブックに売り込もう!」
  彼は私がずっと天文学者だと思っている。それでアメリカに行ったんだ、そのアメリカ帰りの天文学者なら、まさに適任だ、と思ったのだろう。私は科学史に転向していて、当時占星術の本を書いていたから、占星術なら書くよと云ったら、「占星術、ウーン」と彼は絶句した。時まさに高度成長時代、科学技術信仰の時代で、鉄腕アトム全盛であった。
 その後, テヅカは彼の漫画の英訳を考え、適当な訳者を紹介してくれ、という。当時日本に住むアメリカ人の友人の息子で、日本生まれ、テヅカのマンガで育ったのがいた。彼は大学はアメリカの大学に送られていて、休暇で帰ってきたのをつかまえて、テヅカに引き合わせた。テヅカはいきなり、「アメリカでも大学生はマンガを読んでいるでしょうね」と勢い込んで聞いた。「いや、読んでいませんよ」という答え。さすがのテヅカも「夢が冷めたな」といったが、その明くる日の朝日新聞に彼のマンガがアメリカ人のファンによって英訳される、という記事を書いていた。結局その時は、日本マンガの「ウー」とか「ギャー」とかいう擬音が訳せない、訳語がバルーンにうまくはめ込めない、とかで、うまく行かなかったが、その後だいぶしてから、プロのマンガの翻訳家の手によって英訳されて世界に売り出すことにもなった。ここでも、私は彼の役に立たなかったのである。
  その後、テヅカはアニメーションの方へ手を広げ、題材も科学技術ススメススメ式のものからエコロジー的なもの、思想的なものへと転じてきて、さすが漫画界切っての知識人だと感心していたが、ある時、ある雑誌で座談会をすることになって、テヅカはその前に座談会の参考に読んでおけということか、『陽だまりの樹』を送ってきた。見ると彼の先祖の手塚良庵が主人公、私の専門の一つである洋学史上の人物である。これは読んどかなくちゃあ、と一生懸命努力したが、どうもうまく進めない。マンガの読み方を知らない、つまりマンガ・リテラシーがないのである。おしまいまで読まずに座談会に出たが、そんな私がマンガについて論じられるわけがなかった。
彼との最後は、私が客員教授としてオーストラリアに立つ寸前だから、彼の死の数ヶ月前のことだろう。銀座のレストランで中学の友人数人が会ったのだが,彼がゲッソリやせていて,食べるものにはほとんど手をつけなかった。それでも声だけは元気そうで,そのときは誰もあまり心配しなかった。
  急にメルボルンに朝日から電話が来て,テヅカが死んだことを聞いた。その時,追悼に彼の科学観について書いてくれと言われ、これは資料が手元にないという理由で断った。
  さらにある出版社からテヅカの伝記を書けといわれたが,これも私にマンガ・リテラシーがない、という理由で断った。
  断るということは後味が悪いものだが,テヅカに関しては三度も断ることになって、内心申し訳ないと思いつづけている。ここらでこの心の負債から多少なりとも開放されようと,この一文を試みている次第である。
  日ごろ,マンガこそ世界に冠たる日本文化だ、と雑誌に書いていながら,僕自身マンガがどうも読めない。ではマンガ・リテラシーとは何か? それがないと若い人とつき合えないのか。ある文部省の高官は、学生を理解するために、マンガ・リテラシーを身につけていた。彼に聞くと、我慢して最初の3冊くらい読めば、あとはもう大丈夫ですよ、という。私は我慢が足りなかったせいか、一冊目で投げてしまった。
  つくづく考えるのに、それは本を読む、マンガ本を読む、その間(ま)の問題、テンポの問題であるらしい。たとえば、一般の人は数式が出てくるとお手上げで、その本を投げ出してしまう。それは数式が最も抽象化された、きわめて濃密度な表現手段だからで、その濃密さに普通の人は耐えられない。逆に理工系などふだん数式とつきあっている人は、数式を一般向けにふつうの言葉でやさしく表現したものを読むと、まだろっこしくて、イライラして、読むに耐えない。
  同じことがマンガとふつうの活字本との間にあるのではないか。マンガを読み慣れている人は、一冊を5分か10分で読んでしまう。活字本なら数時間もかかるところだ。だからふだんマンガ本を読み慣れている連中は活字本に接すると、その濃密な凝縮された情報が耐えられない。ところが私のように本は数時間で読むものと心得ている者には、見開き1ページのマンガの与える情報の希薄さがまだろっこしくて、放棄してしまう。
  その後、私は自分なりのマンガの読み方を発見した。寝ころんでテレビを見ながら、コマーシャルの間はマンガを見て、あいだをつなぐ、ついにこれでマンガをよめるようになった。


付録:宝塚について

テヅカがオールド・ヅカファンであったことは有名である。宝塚の重役になった天津乙女の家の隣に住んでいたというからすごい。テヅカの博物館が宝塚に出来たので、我々中学の仲間がみんなで行ってみよう、ついでに宝塚を見よう、ということになった。
  以前に見たのが1930年代だから、60年目ということになる。しかし、子供の時に持った宝塚のイメージと違うので戸惑った。超満員の観客の全員,女性である。そこに一塊の爺さん集団が混じるのは、奇観であった。こんなはずではなかったが、という思いのまま、周囲の異物視に耐えた。
  私は酔ってカラオケをやれといわれれば、オールド・ヅカ・ソングを唄いたくなる。「モン・パリ」、「モン・パパ」,「パリ祭」等々。それは少年の日への郷愁である。宝塚というところは家族連れで一日過ごせるところで、戦前には珍しかった自動車専用道路で着いて、一日動物園、遊園地、温泉、それに大・中・小劇場で少女歌劇、新派、映画のどれかを見た。
  小学生の頃、「善太と三平」に出ていた女優のブロマイドを買ってきて、眺めていたのが、我が初恋ということになるだろう。それでもシナ事変以後は時局色が入ってきて、私が最後に見たのは、天津乙女と小夜福子が燕尾服を着て「大陸行進曲」を唄うものだった。中学に入ったら、体操の先生が「今頃はタカラヅカに通う生徒がいる。」と怒っていたから、禁止されていたのかも知れない。テヅカは禁止を犯して通っていたのだろう。なるほど、彼のマンガにはタカラヅカに通じるものがある。