弔辞
中山先生、初めてお会いした1975年初春から39年あまりの長きにわたり、
ご指導をいただきありがとうございました。
共同研究者として数々の課題に取り組んだ日々が、楽しく想い出されます。
最近では『新通史 日本の科学技術 世紀転換期の社会史 1995年〜2011年』という
約100名のメンバーで取り組んだプロジェクトを、2012年に無事完結させることができました。
中山先生の存在は太陽のように大きなものでした。
中山先生はいつも「仏の中山」として、研究会やシンポジウムで大所高所から刺激的な批評を下さり、
それをきっかけに皆が活発に議論を始め、収拾がつかなくなることもしばしばでした。
4月29日に皆でご自宅を訪問し、ワインをあけて歓談したさいの、先生のお元気なご様子からは、
そのわずか10日余りあとに旅立たれるとは思ってもみませんでした。
5月10日夜にご家族の方々とともに先生のご最期を看取ったときの無念さは、たとえようもありません。
「巨星墜つ」という言葉があります。中山先生に相応しい言葉です。
先生はトーマス・クーンの科学革命論を日本で普及浸透させる上で中心的役割を演じました。
クーンのキーワードである「パラダイム」は今や日常語となりました。
他にも近世日本科学史、大学史・大学論、科学と社会の現代史の3つの領域を中心に、
多くの話題作を発表してきました。
とくに現代史では『通史 日本の科学技術』という全5巻の大型本の出版と、
その英語版の出版を牽引されました。
先生は、東京大学では孤立無援の立場に置かれました。
しかし先生は所属組織・専門分野・国籍などの境界線を超越した
実に幅広い人脈をおもちになり、きら星のように輝く多士済々の方々が集っていました。
そこは職業的な利害関係や、親分・子分関係とは無縁の、
メンバーが自由意志で集まり、ときには離れていく場であり、
この人脈に入れてもらい楽しく議論を重ねるだけで、
メンバーは多くの知的刺激をうることができました。
中山先生は一戸直蔵という1920年に42歳で結核のため夭折した天文学者に、
よくご自身をなぞらえていました。
先生が東大定年の直前に出版された伝記『一戸直蔵 野(や)におりた志の人』の冒頭には
「超新星のごとく一瞬にして激しく燃え、光芒も引かず消え去った一戸直蔵」とあります。
東京帝国大学星学科を卒業し、若くしてアメリカに渡り世界的に名のとおる研究者となり、
東京帝国大学講師に迎えられ、類まれな企業家精神で新高山天文台建設計画など多くの事業に邁進するも、
東大アカデミズムから煙たがられ、わずか4年で辞職させられ、その後は民間学者として活躍されました。
その経歴は中山先生に相通ずるものがあります。
一戸の告別式はその友人たちによれば異常なほど明るかったといいます。
ひたすら前向きに行き抜いた故人の志が、参列者をそのように振る舞うよう促したからでしょう。
宇宙物理学のイロハから考えると、巨星は決して墜ちるものではありません。
宇宙空間に上下はありません。
一戸直蔵のように超新星爆発を起こすか、あるいは核融合燃料が燃え尽きてきて赤色巨星となり、
さらにガスを放出して白色矮星へと変わります。
中山先生は燃え尽きてもなお当分は輝き続け、私たちを導いてくれるでしょう。
7月には中山茂先生を偲ぶ会を開催します。
また中山茂著作集も7月から配本が始まる予定です。
中山先生、長い間ありがとうございました。
これからはご家族の方々とも助け合って、しっかり前を向いて生きてまいります。
2014年5月16日
吉岡 斉
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