Memorial Page

中山茂は、2014年5月10日夕刻、他界致しました。

葬儀は、無宗教形式で、子どもの頃の子守歌だった「グノーのセレナーデ」、

好きだったシャンソン「パリ祭」「モンパリ」、

宝塚ソング「すみれの花の咲く頃」の流れる中、執り行われました。


九州大学教授吉岡斉氏、下関市立大学教授川野祐二氏より頂戴した、

5月16日の告別式の弔辞を以下に掲載致します。

弔辞

中山先生、初めてお会いした1975年初春から39年あまりの長きにわたり、
ご指導をいただきありがとうございました。
共同研究者として数々の課題に取り組んだ日々が、楽しく想い出されます。

最近では『新通史 日本の科学技術 世紀転換期の社会史 1995年〜2011年』という
約100名のメンバーで取り組んだプロジェクトを、2012年に無事完結させることができました。
中山先生の存在は太陽のように大きなものでした。
中山先生はいつも「仏の中山」として、研究会やシンポジウムで大所高所から刺激的な批評を下さり、
それをきっかけに皆が活発に議論を始め、収拾がつかなくなることもしばしばでした。

4月29日に皆でご自宅を訪問し、ワインをあけて歓談したさいの、先生のお元気なご様子からは、
そのわずか10日余りあとに旅立たれるとは思ってもみませんでした。
5月10日夜にご家族の方々とともに先生のご最期を看取ったときの無念さは、たとえようもありません。

「巨星墜つ」という言葉があります。中山先生に相応しい言葉です。
先生はトーマス・クーンの科学革命論を日本で普及浸透させる上で中心的役割を演じました。
クーンのキーワードである「パラダイム」は今や日常語となりました。
他にも近世日本科学史、大学史・大学論、科学と社会の現代史の3つの領域を中心に、
多くの話題作を発表してきました。
とくに現代史では『通史 日本の科学技術』という全5巻の大型本の出版と、
その英語版の出版を牽引されました。

先生は、東京大学では孤立無援の立場に置かれました。
しかし先生は所属組織・専門分野・国籍などの境界線を超越した
実に幅広い人脈をおもちになり、きら星のように輝く多士済々の方々が集っていました。
そこは職業的な利害関係や、親分・子分関係とは無縁の、
メンバーが自由意志で集まり、ときには離れていく場であり、
この人脈に入れてもらい楽しく議論を重ねるだけで、
メンバーは多くの知的刺激をうることができました。

中山先生は一戸直蔵という1920年に42歳で結核のため夭折した天文学者に、
よくご自身をなぞらえていました。
先生が東大定年の直前に出版された伝記『一戸直蔵 野(や)におりた志の人』の冒頭には
「超新星のごとく一瞬にして激しく燃え、光芒も引かず消え去った一戸直蔵」とあります。

東京帝国大学星学科を卒業し、若くしてアメリカに渡り世界的に名のとおる研究者となり、
東京帝国大学講師に迎えられ、類まれな企業家精神で新高山天文台建設計画など多くの事業に邁進するも、
東大アカデミズムから煙たがられ、わずか4年で辞職させられ、その後は民間学者として活躍されました。
その経歴は中山先生に相通ずるものがあります。
一戸の告別式はその友人たちによれば異常なほど明るかったといいます。
ひたすら前向きに行き抜いた故人の志が、参列者をそのように振る舞うよう促したからでしょう。

宇宙物理学のイロハから考えると、巨星は決して墜ちるものではありません。
宇宙空間に上下はありません。
一戸直蔵のように超新星爆発を起こすか、あるいは核融合燃料が燃え尽きてきて赤色巨星となり、
さらにガスを放出して白色矮星へと変わります。
中山先生は燃え尽きてもなお当分は輝き続け、私たちを導いてくれるでしょう。
7月には中山茂先生を偲ぶ会を開催します。
また中山茂著作集も7月から配本が始まる予定です。

中山先生、長い間ありがとうございました。
これからはご家族の方々とも助け合って、しっかり前を向いて生きてまいります。

2014年5月16日
吉岡 斉




弔辞

中山先生、先生が以前から気になされていた、神戸新聞に書かれたエッセイを探しに、
神戸市に行ってきました。
中山茂著作集の一覧表に加えるためです。

神戸新聞にお書きになったエッセイのいくつかは、既に見つけていましたが、
先生が「それ以外にもあるんだ。確か1990年だ」とおっしゃっていたので、
神戸市の図書館でマイクロフィルムを探しました。
一日中探したのですが、新たなエッセイが見つからず、閉館が近づく中で、
これはきっと先生は90年だけでなくて、別の発行年にも書いたんじゃないかと思いました。
それでふと先生に、確認の電話をしようとして気付きました。

ああそうだ、先生はもういらっしゃらないんだと気付いたのです。
胸が熱くなり、目頭が熱くなりました。
周囲の人はマイクロフィルムの見過ぎだと思ったことでしょう。

先生にもう一度会えるような気がして、新聞の発行年を変えて、
マイクロフィルムを懸命に回しました。そして見つけました。
そのエッセイには先生の顔写真が載っていました。先生らしい軽快な文体で、
いつものように気さくに語りかけていただいているような気がいたしました。

私は、先生の書く文章がとても好きで、話し方も、笑い方も、
そして先生のお考えも、全て好きでございました。
私は先生の晩年の弟子、唯一の正規課程の弟子などと、
周囲の方々に言っていただきますが、実際のところ、先生の一ファンだったと思っています。
なにしろ先生と私は、所属している学会すら重なりませんでした。
しかし、先生はそんなことを気にも留めませんでした。
「川野くん。僕一人についちゃいけないよ。2〜3人くらいの人につきなさい。
僕だけにつくと、その枠にはまってしまうから」。
大学院で会っていきなり、他に人にも指導を仰げと言われたのですから、
当時の私が驚いたのも無理はありません。

ご指導を受けた論文ができあがって、大学への提出許可を貰いに、初めて中野のご自宅を訪ねたとき、
先生は私の論文をチラと一瞥しただけで、脇においてしまい、
「お祝いに特別なのを飲ませてやろう。めったに人にはやらないんだが」といかにももったいぶって、
スコッチウィスキーを持っていらっしゃいました。
「まあ、君なら味が分かるだろうから。一杯だけだぞ」といってグラスに注いで下さいました。
たいへんおいしゅうございました。結局、何杯飲んでしまったでしょうか。

先生とは本当によく飲みました。
先生の高弟の方々も、研究のお仲間も、一騎当千の強者がそろっておりました。
先生が主催した「通史日本の科学技術フォーラム」の研究会は、その典型と言うべき集まりで、
私はこの通史フォーラムの何代目かの飲み会幹事を務めたおかげで、浅学の身にも関わらず、
お仲間に加えていただくことができました。
私の実質的な研究指導も、このフォーラムに集まった先生方にしていただいたようなものです。
一人の枠にはまるどころか、著名な先生方に毎月指導していただくのですから、
まさに先生の指導方針のとおりだったわけです。

宴会の席で先生はよくこんなことを、おっしゃっていました。
「僕が死んだら、メソメソするのはやめてくれよ。こうしてみんなでワイワイやってくれ」。
私はそれを伺うたびに、「そんなこと心配しなくても、必ずみんなそうしますから、ご安心ください」
と答えたものでした。
すると先生はたいへん満足そうな顔をなさって、いつも「まあ、そうだろうなあ」とおっしゃるのでした。

だから今日はお約束通り、メソメソせずに、少し控えめな万歳三唱をして、先生をお見送りいたします。

中山茂先生の偉大な人生に、「万歳、万歳、万歳」。


追伸:
先生がいつも気にされていたことを、最後にもう一つご報告いたします。
一昨日の阪神タイガースは、4対3の「逆転勝ち」でございました。

2014年5月16日
川野祐二