太平洋戦争の始まった年、大阪の北野中学に入り、翌年広島一中へ転校、広島高校理科と六年の広島生活の間、母の死や原爆に遭い、余り印象はよくない。しかし、高等学校は例外で、終戦前後の混乱にもっとも多感な時代を送り、原爆で倒れた校舎の復興に学生演劇をやって金を稼いだり、文学青年面して同人雑誌を出したり、野球の選手もやった。終戦の年、兵役逃れに理科に入ったものの、あまり理科生らしくなかった。

 昭和二十三年東大理学部天文学科に入る。天文を選んだことには、当時ニヒルな風潮が影響したことは否めない。親許離れた大学時代は栄養失調、在学中、学生掲示板の闇米相場が最高に達したことが記憶に残る。卒論は原子スペクトルの計算、懸命にひねくったが、一九三〇年代のテーマだったので、大した結果は出なかった。

 天文学的才能があったとは到底思えぬが、一つには下界がむしょうに恋しくなり、二十六年大学を出るとすぐ平凡社編集部に入った。男一匹食って行く自信はできたが、サラリーマンに徹することもならず、ジャーナリスト気取りで雑文も書いたが、もっとまともなことがしたい。幸い仕事は能率よく(要領よく)やればずいぶん自由な時間がとれた。身辺に多かった科学史の先輩の影響で、その方面の翻訳をしたが、三冊目くらいで自分のものが一向たまらないことに気づいた。そこで翻訳が機縁となって、三十年外国に渡ることになった。

 科学史の本山たるハーバード大学(学科の正式な名はHistory of Science & Learning)を選んだことに間違いはなかったが、独学科学史とアカデミックなものとは素人と玄人の差があまりにも明瞭、そこでアメリカ人との競争でエラく苦労した。そのまま天文をやっておけば、こうしたなげきはあるまいにとぼやいたものだ。

 四年半の在籍の後半は米→英→米→日→米→スペインと研究上の必要からというものの、独り身の気安さで半年ごとに海を渡る生活であったが、別に放浪癖があるわけでなし、昨年秋のイラン・アフガニスタンへの旅を最後として、もう落ち着きたいものである。自分の方向も決まった。学位論文であった東洋天文学史の研究を続けること、近世における科学と技術の関係、研究体制史にも手を拡げること、そして科学史を英米並みに大学にねづかせること、そのためには科学史のCMをやる。喧しくて迷惑する向きもあろうが、反復によっていやでも視聴者に印象づける近代広告術の原理を応用するつもりである。