自分と出会う

ー「私知」と「公知」とを結びたかったー

 

 1945年、17歳。広島高等学校一年生の私は,原爆と敗戦で打ちひしがれても若者のエネルギーだけはあって、混乱と自由の中で、友人と語らって文化活動をしていた。そんなある日、一夜にしてその前と後とは自分がはっきり違う、という体験をした。もし私が宗教的な環境にあれば、それを神の啓示といったかもしれない。私にはそうした環境がなかったので、外が白みはじめる頃、少年の日に失った母への語りかけとして、しきりに書き綴った。
 それまで中学生の頃はまわりが教えるものをすべて受け入れ、優等生として振舞っていた。ところが、それ以後はすべての与えられたものの意味を自分に問い掛けて、納得できないと、進めない。学校の講義も、試験も受けられない。たとえば、「人は笑う、笑うことにどういう意味があるか、その意味を見つけるまで笑うまい」と決意して、当時の私は典型的な悩める若者の顔をしていた。父や兄とも口論しながら、自我を確立させていった。
 演劇活動を一緒にやっていた友が、青年共産党のキャップをやっていたので、入党の動機を聞いたら、まだ出版が復活していなかった時期にいち早く出たレオ・シェストフの『虚無よりの創造』を読んで感激したからだ、という。敗戦直後のすべての既存権威がくずれ、価値の転換を見た時代の若者には、ぴったりの題であり、彼のような読み方もその頃はあったのだろうが、私にはそこに虚無はあっても創造は見つからず、以後ニヒリズム・実存主義系のものを読みあさっていた。そして青春の心の彷徨が続く。
 それでは、大学へ進む意味はわからない。人生の方向も決まらない。ある時、哲学者の下村寅太郎先生の門を叩いたら、先生からは「君はそういうことは胸にしまって、専門のことをやりなさい。」と言われた。私には、心への問いをいくら繰り返しても,解決できるものではない、というように受け取られた。
 こうした自我への問い、心の問いは今でも自分にとって最も大切な問いではあるが、それは何でもよいから各人各様に安心立命を求められればそれでよい「私知」とでもいうべきものであって、科学のように伝達されなければ意味がない「公知」とは違う。だから、心への問いは心の中にしまっておいて、職業としては公知の世界で仕事をすればいいわけだ、と一応は悟りを開いた。
 昼は儒教的秩序の中にある中国の文人官僚が、個人的内面的な欲求から夜はひそかに道仏の書に親しむ。そのように、私も昼間は天文学的計算を行い、夜は内面に向けたものを読んで心を慰める、という大学生活だったが、卒業後、天文学から科学史に転じたのは、やはり私知と公知とを結びたい、という心が働いていたからであろう。
 しかし、老年に達しても、私知と公知の間に架け橋は出来なかった。今では、修身斉家と治国平天下とは無理して連続させなくてもいいだろう、と思っている。

朝日新聞 2002年(平成14年)2月18日 月曜日 p.6