私の原爆投下論ー改訂

ヒロシマ・ナガサキは実験であった!
1952年、講和になってから、プレスコードも外れたので、日本への原爆投下の理由を自由に論じ、発表することが出来るようになった。当時もっとも有力な説は、ソ連の参戦が近づいたので、戦後の覇権を賭けて原爆投下で優位に立とうとしたというものであった。「原爆帝国主義」がいわれた頃のことである。

「戦力を失っている日本を降伏させるのに、原爆は必要ではない」と戦略のプロ、アイゼンハワーは言って、むしろ戦後におけるモラル問題を気にしていた。当時広島にいた私には、それはもっともだと思えた。トルーマンが述べて、アメリカ国民に信じられている「日本を早く降伏させて、沖縄での米兵の被害を出来るだけ少なくするために、」という公式の理由はわれわれのあいだでは誰も問題にしていなかった。

では、降伏させるにはヒロシマだけでいい、どうしてナガサキに二発目を落とす必要があったのか」という問いには誰も答えられなかった。「二つ作ったから、二つとも落としたのだろう」、というような、粗雑な推測しか出来なかった。ソ連が参戦してきて、日本が降伏してしまえば、せっかく作った二つの原爆を実験するチャンスがなくなる。だからその前に慌てて落としたのだ。とすれば、ソ連参戦説とも辻褄があう。

しかし、冷戦が遠のいてきた昨今の人に納得させるには、「原爆が貴重な人体実験であった」とする方が、わかりやすいだろう。ヒロシマとナガサキは違う種類の原爆であるから、それぞれの効果を科学者なら知りたいと思うだろう。だから、終戦後、何はともあれすぐ寄こしてきたのは、原爆被害調査団であった。それには日本の科学者も協力した。そして被爆者を調査はするが治療せず、という方針で、多くの研究成果を生んだ。とくに放射線の遺伝子への影響がもっとも強い関心が持たれたテーマで、だから彼らの関心は被爆者よりもその子供たちにある。おかげで私の子供たちは、毎年定期的な健康診断を無料で受けている。

私は被爆経験を語りにくかった(「世界の原爆文学」参照)。子供たちが嫌がるだろうというのが、その最大の理由であった。今、子供たちも十分育った。原爆を語ることが抑止力になると思っていたが、昨今の様子を見るに、それが唯一の加爆国のある種の人においては道徳的抑止力にはまったくなっていない、ということに気づいて、慄然としている。

  参考文献

「広島文学館 (Hiroshima Literature Museum)」というホームページに、私と妻の対話の形で被爆体験及び原爆文学について語った「世界の原爆文学」(『思想の科学』1969年8月, pp.14-25)が転載されています。

「世界の原爆文学」:http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/hlm-society/Nakayama.html

「広島文学館 (Hiroshima Literature Museum)」ホームページ:http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/index.html