演劇で稼ごう

 
 まあ聞いてください、僕の自慢話。原爆でやられた広島の焼け跡で、破壊された(旧制)広島高等学校の復興資金集めを演劇で稼ごうとして,成功した話を。
 発案者の二年生が当時文学青年であった一年生の僕のところに出し物の相談にきたのです。そこで男子校の高等学校でできるものなら、女優のいらないマイアーフェルスターの『アルト・ハイデルベルク』と武者小路の『ある日の一休』くらいかな、と答えたら、その通り採用になったのです。そんなら、僕も参加しょうか、ということになったのです。
 『ある日の一休』は男ばかりですが、『アルトハイデルベルク』にはどうしてもヒロインのケティーがいる。そこで食堂のメッチェンを口説きました。もう一人叔母さんがいるんですが、それは女形にしました。
 劇場は焼け跡の横川にいち早く出来た旭劇場という小屋。原爆ではやられたが、戦時中の統制から解放されて、市民はみな新しい娯楽を求めていたのです。
 広島の田舎に疎開していたある劇作家から指導も受けましたが、だいたい自分たちでみんなやったのです。本番では初めてドーランを塗りたくられてまごつくこともあったのですが、とにかく大入り満員、大成功でした。校舎復旧のための基金募集なら、と税務署の方も入場料に税金は掛けませんでした。
 それで味をしめて、中国四国一円に巡業してまわろうということになりました。出し物は地方向けには『アルトハイデルベルク』ではまずい。といって、股旅モノは高校生の品位に関わる、というので、『修善寺物語』に代えました。その頃までには演劇部員も女形をやれるくらいに成長していたのです。舞台衣装は宝塚に借りに行きました。
 こんなことは、荒廃と解放がごたまぜになり、正規の劇団も復活していない、終戦直後に起こった奇跡です。ところが、その奇跡の証拠になるような写真が何もない。ある時、週刊誌の『週間新潮』の捜し物の欄で誰かその時の写真を持っている人はないか、と呼びかけてみました。反応はあったのですが、高等学校の寮祭と間違えていました。僕たちのはレッキとした「商業演劇」だったのです。その頃、カメラを持っている人はごく僅かだったでしょう。それよりも、フィルムやフラッシュも、入手できなかったのです。
 演劇の連中は、個性が強くて、おもしろい連中でした。それからの人生はいろいろ、テレビ局の編成局長になって、芸能界の帝王といわれた男もいますし、大学の学長になったのもいます。いつか会ってみたいと思いながらも、ぼつぼつ死んで行くようになってきました。
 僕はというと、東大に入ったとき、一年上のマネージャーをやっていた人から、東大の演劇部に誘われたことがあります。ところが理学部なんかで演劇部で活動していることがわかったら、破門されてしまう、と断りました。それでも若い頃は芝居を見ると、自分でもやってみたくなって困ったものです。